お母さんの声に応える科学者の使命

今、日本各地でお母さんバッシングが起きています。 お母さんたちが、自分の気持ちを伝える場がもっとあるといいと思います。

 例えば、赤ちゃんが心配で、室内で洗濯物を干していたお母さんは、夫から、みんな外に干してるだろ、と怒鳴られ、洗濯物をひっくり返され、椅子で殴られたそうです。それを見た赤ちゃんは、高熱を出したそうです。この話は、本人から聞きました。日々、こうした話を耳にします。赤ちゃんが心配。子供を守って。と声をだしたお母さんは、家庭で、学校で、保育園で、役所で、メディアで、近所から、日々、叩かれています。

 例えば、「チェルノブイリへのかけ橋」の野呂美加さんも、一部の人たちからバッシングされています。野呂さんは、チェルノブイリの子どもたちを支援してきたお母さんです。科学的ではないというのも批難される理由の一つです。しかし、野呂さんは科学者ではありません。聞き手はそのことをよく理解しています。科学者の仕事は、お母さんの発言を非科学的だと批難することではなく、科学的に補完することではないでしょうか。

 「この子を守って」と訴えるチェルノブイリのお母さんの声に応える野呂さんを批難する科学者は、子どもを救うために何を実際にしているのでしょうか。今、「助けて」と声にだせずに心の中で叫んでいるのは、遠いチェルノブイリではなく、日本のお母さんたちです。その声を封じるのではなく、声に応えるのが科学者の役割です。科学者が科学者としての特権的地位を得ているのは、税金の補助をうけた研究費を用いて、研究を発表しているからです。だからこそ、子どもを救って、という声に応える責任があります。

 野呂さんの講演会に来るお母さんたちは、声を出すことを抑圧されている状況におかれているといえます。野呂さんの講演会で、チェルノブイリのお母さんたちの言葉を聞き、自分たちも声を発することができるようになるのです。

 お母さんの笑顔が子どもにとって、とても大切です。このような何気ない言葉とともに、満面の笑顔で子どもを抱きしめるお母さんの写真がスライドで投影されていきます。チェルノブイリで消防士として消火活動をし、ぶらぶら病になり亡くなったお父さん。自分も死ぬんだと落ち込む男の子に、決してあきらめずに、日本にこの子を連れて行って療養させてほしいと頼むお母さん、そして見事に成長した息子を抱きしめて笑う姿の写真では、お母さんの気持ちが、写しだされます。技術も構図も光よりも大切なものが伝わります。やはり写真に写るのは関係性なのだと実感しました。そこに物語が見えるとドキュメンタリーになるのでしょう。

 こうしたお母さんの思いは、文化人類学や教育学、そして科学をめぐる問いとつながります。文化人類学では、客観的科学的真実と言われてきた過去の文献を反省的に批判し、その権力性をあばいてきました。

 現在では、部分的真実を描く芸術としてエスノグラフィを捉えています。

 私は、すべての人の話は、嘘も勘違いも含めて、部分的真実だと捉えます。

 また、聞き手、学び手は白紙ではありません。怪しい話、嘘っぽい話、デマ、ありとあらゆる情報から、ちゃんと生きるのに必要な情報を選ぶ力が潜在的にあります。

 今、ネット上で多額の税金をかけた検閲をしたり、パニックになるとして科学の成果であるスピーディの予測を公開しなかったりするのは、国民を馬鹿にしています。政府が安全と言っているのだからと言って、子どもたちが通う保育園や小学校の測定させない、給食からの内部被曝を強要することがあるいます。理由は、パニックになると困るからだそうです。一体、誰がパニックをおこしているのでしょうか。一体、誰が非科学的なのでしょうか。測定もせずに安全と言う、政府が安全と言うから安全と言う、こうした思考停止こそが最も非科学的だと思います。

  原子力の問題について発言されてきた故高木仁三郎さんは、いかにして、科学を私たちのものにできるのか、という宮澤賢治の問いを生涯かけて探求した方だと思います。そこでみつけた方法が市民科学者を育むということでした。 

 科学の力を子どもやお母さんや市民の手に届くものにしてほしいとも願います。まずは、本当に困っているお母さんの声を聞いてみましょう。大切なのは、多様な声を安心して発する場だと思います。